2011年09月12日
震災当日の映像です。
津波がきたその瞬間です。
ほんの少ししか撮影できませんでした。
津波の映像は様々アップされていますが、これも将来なにかの資料にでもなればと思い、
アップします。
あれから半年・・・
3月11日から早くも半年の月日が流れました。
毎日毎日が慌しく進み、しかし、復興への道は遅々として進まない今日です。
パソコンも手に入り、ネットにつなぐことができてしばらくなりますが、
どうにも日記の更新ができませんでした。
何をどう書いていいか、考えてばかりで手が進まない。。。
あれからいろいろとありました・・・。
いろいろとありすぎて、どう整理したものか・・・。
そんな感じです。
3月11日、私は午前中の撮影の仕事を終えて、会社で翌日の準備をしてました。
地震が起きた時はデスクでパソコンに向かっていたのですが、大きな揺れでラックの荷物が崩れ落ち、机の上にあった道具も床に落ちたり、棚が倒れてきたり、
未だかつてない揺れに、ただただ身体を保っているので精一杯でした。
会社には、私のほかに妻と7ヶ月の長男と3人で居ました。
子供は妻が背負っていたので、怪我もなく無事でした。
この時点での地震の被害はおそらくそれほど大したものではなかったと思います。
いろいろと荷物は倒れたりしましたが、もっとも高価なカメラ機材などは無事だったので。
地震直後、すぐに停電となり、TVも見れないので、外の状況がわかりませんでした。
会社の外では、慌しく人々が行き交っており、車は渋滞していたのを覚えています。
とりあえず、外の車のエンジンをかけて、ラジオを入れました。
大きな地震のニュースが流れていましたが、この時点では津波の恐れはアナウンスしていたような気がしますが、会社は海岸から1km以上も離れているので、今まで津波の心配をしたことがありませんでしたので、
あまりラジオの内容も十分に注意していなかったような気がします。
とにかく、地震直後のニュースだったので、地震があったという内容だけで、それを聞いて自分は会社に戻り、地震の揺れで水槽から水があふれて大変な状態だったので、その片づけをしはじめました。
大きな水槽からこぼれた水の量はかなりの量で、片付けも大変でしたが、海水なのでそのままにはできないと思いましたし、
翌日には撮影の仕事があるので、機材を安全な場所に避難させようと、車中に積み込みました。
今思うと、このときにしっかりとラジオを聴いていれば、津波のことをもうちょっと注意し方かもしれません。
・・・、いや、今までに何度となく津波の注意報を聞いて、その都度たいしたことがなかったので、
津波に対する警戒心というか、警報の信用をなくしていたというか、きちんと受け止めることができなくなっていたのかもしれません。
その場で目に見えない津波の注意よりも、目前の散乱した部屋を見ている衝撃の方が大きく、ただただ早く片付けなければ・・・という気持ちになってました。
片づけをしながら、妻が長女のことが心配なので迎えに行くと言ってきました。
長女は地元の保育園で預かってもらっていました。
地震の影響は心配でしたが、外は渋滞で車で移動ではどれだけ時間がかかるかわからなかったのと、自分は会社の片付けもあり、離れるわけには行かないと思っていたので、
妻一人で移動させるのも危険と考え。
気持ちを切り替え、保育園の先生方を信じ、妻を説得し、もう少し待って、様子を見てから一緒に迎えに行こうということになりました。
保育園や学校なら、地震にも強く、きっと無事だと考えていたからです。
地震からどれだけ過ぎたころでしょう・・・。
30分?・・・、いや40分近く経ったように感じています。
その日はとても寒く、片づけをしながら、最初は窓を開けて車のラジオがいくらかでも聞こえるように・・・と思っていたのですが、
寒いのでドアを閉めてしまいました。当然ラジオも聞こえなくなったわけですが。
水槽の水をとりあえず一通り拭き終えたころ、停電で機械類も動かなくなった静けさに気づき、
ふと外をみると人がまったく居なくなっていました・・・。
その直後でした。
道路を水がサーッっと走っていきました。
音もなく、静かに、低く、速く水が流れていきます。
何が起きているのか、瞬時には理解できませんでした。
その水が流れてくる方向を窓ガラスから覗き込んだとき、すぐに理解できました。
水が流れてきた大道路を見てみると、2階建ての高さほどがある瓦礫が音もなく静かに移動していく瞬間を目のあたりにしたとき、
『津波だ!』と理解できました。
その大道路は海に向かって直線で、4車線の大きな通りだったので、いち早く波が流れ込んできたのでしょう。
しかし、瓦礫は多いものの、水の水位?は以外にも低く、まだ自分の会社の前には水が薄っすらとしか流れ込んできていませんでした。
その瞬間にその後の対応をどうすればいいのか、頭の中でいろいろなことを考えるのですが、やはり海岸から距離がある場所だということが頭から離れず、加えて、すでに水が流れ込んでいることからこれから外に出ることもできないので、
会社の中でまずは様子を見るしかないと考えました。
このときも、水位が上がったとしても、膝下ぐらいだろうという甘い考えが抜けませんでした。
ラジオか防災無線のようなものがあれば、おそらく、もっと早くに津波に襲われ、その事実がTVの中継のように早く伝わった可能性もありますが、
そのときには、外からの情報が一切なくなっていましたので、どれだけの津波なのか、どこで何が起きているのかもまったくわからないままでした。
道路に水が走って数秒、自分はこんなときに・・・と思われるかもしれないが、この現実を記録しなければ、と思い、手身近にあったホームビデオを手に、外の状況を撮影しようとしました。
水の流れは想像以上に速く、そして、初めは数センチの水位が、途中から加速度的に上昇していくのがわかりました。
その速さはなかなか言葉で言い表せないのですが、水位が10cm上がるごとに、部屋の明るさがどんどん暗くなっていくのを覚えています。
ガラス張りのドアに黒い海水がどんどん水位を上げて押し寄ってきました。
初めは、どの程度の水位がくるか見極めようなど考えて注意してドアを見ていたのですが、
10cm、20cm、30cm、40cm、、、、と勢いが止まりません、
30〜40cmぐらいになったときに、このままではドアのガラスが割れて一気に流れ込んでくると、感じたので、とにかく少しでも高いところに移動しなくては・・・と、妻と子供をテーブルのある部屋に移動させました。
一階建ての平屋の社屋なので、高いところに逃げる・・・ということができなかったんです。
唯一できたのは、テーブルの上に上がるぐらいで、嫁が子供を背負ったままテーブルの上に上がり、自分も乗ろうとした瞬間、後ろでバシャンという大きな音がなり振りかえると、まさに映画のように水が勢いよく流れ込み、床においてあったパソコンやテーブルも一瞬にして吹き飛ばされるようにして流されていく瞬間を見ました。
海水はあっという間に、本当にあっという間に部屋一面に流れ込み、テーブルの高さまで何のためらいもなく上がってきます。
テーブルの高さで収まるような津波でないことを考える間もなく、窓をに足をかけ、さらに高いところを逃げようと必死でした。
(窓があったから良かったものの、窓のない部屋に逃げていたら、そこで3人とも助からなかったでしょう。)
窓の外には、すでに車が流され、どんどん積み重なるように集まっていました。
平屋の一階建てなので、窓以上にもう登れるところなんてないんですが、窓をあけたちょっと外側に、隣との仕切りの網フェンスがあります。
そこに足をかけられそうだったので、2人でフェンスに足をかけ、その上に上りました。
足元では、津波の激しい流れが・・・。足を滑らせ、少しでも流されることになれば、きっと助からない・・・。それは簡単にわかりました。
水はどんどん水位をあげてきます。
2M近くフェンスを飲み込もうとしているので、さらに高いところに逃げなくてはならないのですが、
あとはもう屋根の上しかない状態で、そう簡単には上れそうにない高さなのですが、フェンスからは手の届く位置でした。
やや雪の降っている中、まず子供をおんぶ紐ごと屋根の上にあげて、今度は自分たちが上がらなくてはならないんですが、足をかける場所が難しく、フェンスを移動するなりして、壁にあるエアコンのホースとか、雨樋とか、とにかく必死の思いでよじ登りました。
屋根に上ることで、今まさに起きている現実を知らされたような気がしました。
街は水につかり、車は簡単に流されていき、警報のサイレンの音が鳴り響き、あちこちで悲鳴のような声が聞こえ、
海水が絶え間なく海から流れてきます。
何もできずただただ見ているだけでした。
近くの建物の屋根には、同じように逃げ延びた人たちが何人もいました。
遠くのほうでは、車の上に乗ってる人もいました。
津波が来てから、本当に一瞬の出来事だったように感じます。
あとから知ったニュース映像では、逃げる時間すらなかった場所もあるようなので、
その点、いくらかでも陸地の自分ところは、津波が勢いを弱め、ゆっくりと押し寄せてきたので、
逃げることができたのかもしれません。
屋根の上に逃げ延びて、変わり果てた景色にどうすることもできないでいたのですが、
雪が降ってきて、子供をどうにかして守らなくてはないけないと思ったんですが、
屋根の上では何もないので、どうすることもできません。
幸い、子供は防寒になるようなコートを一枚羽織っていたので、直接雪に濡れることはありませんでしたが、
自分は片付けの途中だったため、ワイシャツ一枚で、寒さで震えが止まらなかったです。
何時間でしょうか、屋根の上で様子を伺っていたのですが、水が引く気配もなく、今度は徐々に日が暮れていきます。
水深はドリンク会社のトラックが丸々浸かるぐらいなので、2m近くでしょうか。
この状態では、仮に移動できたとしても、ずぶ濡れになるし、子供まで濡れてしまいます。
水の流れは弱くなっていましたが、それでもゆっくりと流れがありましたし、さらなる津波で流されないとも限りません。
それに、逃げる先もどこまでが安全なのかがわからない以上、うかつに動くことも危険だと思い、
救助が来るのを待つことにしました。
どんどん日が落ちて、やがて暗くなってきます。
屋根の上ではただそこにいるだけでも風と雪で体力を消耗していきます。
近くには2階建て・3階建のアパートがあるんですが、渡れるような距離でもなく、人影も見えなかったので、助けは見込めないと思い、隣の空き倉庫の方へと移動しました。
屋根伝いに移動したのですが、普段はとても飛び乗れるような距離ではないのですが、津波で車がながされ
、ちょうど運よく足場のようになっていたところがあったので、何時崩れ落ちるかわからない状態でしたが、
その上を移動し、隣の倉庫に移動できました。
こんな状況ではありましたが、中に入るためにはガラスを割らなくてはならず、かなり迷いましたが、流れてきた木材でガラスを割り、中に入ることができました。
外の寒さからか逃れられる・・・と期待して中に逃げ込んだんですが、空き倉庫となっていたそこは、本当に何もない部屋で、
コンクリートの床に、消火器が2本転がっているだけでした。
せめて、壁紙でもあれば、はがしていくらかでも寒さをしのげるのに、と思いました。
しかし、雪や風からは逃れられたので、その点は助かりました。
電話は一切つながらない状態でした。
規制?なんでしょうか、この大災害時に、本当に必要な連絡さえもできないような電話って、
いったい誰のための規制なのか?
幸いメールはかろうじて送受信できるようだったので、すぐに両親にメールをしました。
両親は仙台にお見舞いに出かけており、津波を逃れました。
車も無事だったようなので、保育園に置いてきた長女の救出をお願いしました。
この津波です。
何が起こっているか、まったく想像できません。
ただただ、保育園の先生に頼るかありませんでした。
災害時の対応は、一般人よりもちゃんと訓練しているはず、だから大丈夫・・・・そう願うほかありませんでした。
やがて周りは真っ暗となりました。
電気のない、車もない、明かりという明りの全くない世界。
時々ヘリが何度か行き来してました。
ケータイ電話や懐中電灯を持っている人は、ヘリが通ると必死に「ここにいる」というメッセージを送るのですが、ヘリはとどまることなく通り過ぎてしまいます。
遠くの方で、空が赤く染まっていました。
火災、であることはわかりましたが、後日知ったのはそれが小学校が燃えているということでした。
その夜は、雲一つない晴天で、それがより厳しい寒さを感じさせました。
寒くて寒くて震えが止まらず、立ちっぱなしで疲れていても、座ればコンクリートの床がどんどん体温を奪っていきます。
一番心配だった、7か月の子供がそれまで6時間ごとにお腹をすかせてミルクを飲んでいたのに、
10時間が過ぎても泣かずに我慢してたことです。
私はワイシャツ一枚だったので、子供を背負っていると、背中がとても暖かったのですが、それでは子供の体温を奪ってしまうと思い、スーツを着ていた妻になるべく背負っていてもらいました。
しかし、長時間立ちっぱなしはかなりつらいですし、座れば子供は泣いてしまうので、一晩、交代交代で子供をあやしながら、水が引くのを、、、
助けが来るのを、、、
朝が来るのを、必死に祈りながら、ただただ待つしかありませんでした。
ケータイの電波は、津波の後、6時間ほどは使えましたが、その後は全くつながりませんでした。
アンテナのバッテリーがなくなったんでしょう。
深夜、もはや明かりはケータイのみなので、それも貴重な電気となることもわかっていましたが、
ワンセグでその状況を知ろうとTVを付けました。
ニュースでは繰り返し、津波の映像ばかりで、それも空港や大きな町の映像ばかり。
当然、自分たちが知りたい情報などそこにはありません。
月の光で、その光景はうっすらと見えます。
水位はほんの少しずつ、1時間数pという感じで引いていくのがわかりました。
これなら、夜遅くには歩けるぐらいに引くんじゃないか、、、という期待を持って、寒さに耐えていましたが、
夜の11時ぐらいだったでしょうか、再び水の音が激しくなったので、何が起きたのかと思い外を見ると、
さっきまでやっと40〜50cm引いた来たと思った水位が再び元の最高位まで戻っていました。
第2波、第3波の津波が来たんでしょうね。
この時点で、水が引いてからの脱出はあきらめました・・・。
深夜、最も寒さの厳しい時間、体はガクガクと震え、鼻水は止まらず、きっとひどい顔をしてたでしょうね
。
建物の中・・・といっても、気温は外と変わらず、救助が来るのでは?と外も見ていないと不安なので、窓をあけていたので、そよ風程度の風が入ってきても、とても寒かったです。
ブクブクと、どこで音が出ているのか、倉庫の中で聞こえるのは、一回から聞こえてくる空気の音と、外は鳴りっぱなしのサイレンの音。
余震が来るたびに、これ以上逃げ場のはわかっているんですが、どう逃げるべきかを考えていました。
夜、それまで「助けて」と叫んでいた女性の声がついに聞こえなくなりました。
おそらく、建物ではなく車か何かの上で待っていたのでしょう。
この寒さのなか、濡れた状態で外にいたのでは、とても耐えられるものではありません。
暗闇の中、もう言葉にならない声で、必死に助けを呼び続け、徐々に声が小さく消えていくあの声を自分は一生忘れることはできないでしょう。
一分、一秒が、あまりにも長く感じる時間でした。
夜に何度か子供が泣き出しましたが、今の自分たちにはミルクも水さえもあげられず、おしめも替えてやることができないまま朝を迎えようとしていました。
水位は徐々に低くなっているのですが、それもいつまた津波で水位が上がるかわからない状態で、
ようやって逃げ出すか、悩みました。
朝になって、日が出てくると、太陽にあたっている部分が暖かさを感じ、太陽の偉大さを改めて実感しました。
外を見ていると、徐々にですが、人が海岸側から歩いてきているようでした。
しかし、まだまだ水位は高く、胸まで浸かっているを見て、自分たちはまだ動けない…、そう思い、
もう少し引くまで様子を見ました。
必ずしも、その人たちが行く先が安全とは限らないので。
自分一人なら、濡れてもなんとか生き延びれる、しかし、子供はそうはいかない。
確実に助けなくちゃいけない・・・。
しかし、時間は朝8時を回り、子供も最後にミルクを飲んでから、20時間近く経とうとしてました。
明るくなったこともあり、そろそろ限界だと感じたので、意を決して外に出ることにしました。
水位は、自分の腰ほどまでありましたが、子供を自分が背負い、足元が全く見えない中、ほかの人たちが歩いた場所を見て、安全な場所を通り、水の上がらなかった場所を目指して歩き続けました。
妻には、子供に着せていた防寒着を首に巻かせ、自分たちが濡れても、子供の服と防寒着だけは濡らさないようにと注意しました。
津波は、少し高台となった国道の道路を挟んで、まさに天と地獄のような違いで、その先は何事もなかったかのように、いつもの街並みがありました。
ずぶ濡れになった自分たちを救援に来ていた人たちの焚火にあたり、すこし服を乾かした後、
この地域の避難場所となっている学校を目指しました。
まずは、子供の見るだけでもわけてもらえないか。。。そう思っての移動でした。
学校はすでに飽和状態で、たくさんの人でいっぱいでした。
指揮系統が全く機能していないので、どこに何があるのかが全く分からないままで、
幸いにも知り合いの家族と合流することができたので、案内してもらい、座ることができました。
次にミルクですが、まだ救援物資も届くはずがなく、ないもないような中、救護班の方のおかげで、
乳児用ではありませんが、医療用の流動食をいただき、飲ませることができました。
避難所まで逃げることができたので、ようやく少しは気が緩んできたのか、教室で横になっているところに、
両親が探しに来てくれました。
そう、心配だった長女を無事に探し出して、一家全員無事で再会することができたのです。
地震当時仙台にいた両親は、すぐに石巻に向かったのですが、普通なら1時間で来れるところを6時間以上かかって帰ってきたようです。
そして、会社の近くまで来たそうですが、とても近づける状況でなかったので、そのまま長女の保育園に向かったそうなのですが、堤防が決壊したという事態で通行規制がかけられ、迎えに行くことができず、
その晩は高台に避難して明るくなるのを待ったそうです。
そして、再び長女のある保育園に向かい、車で入れないということで、歩いて迎えに行ってくれました。
長女のいた保育園から数キロ先では北上側の土手が決壊し、土手沿いにあった集落が土手ごとごっそりなくなっていました・・・。
こんな言い方をしたらいけないのかもしれませんが、もし、その堤防が決壊しなければ、間違いなく保育園のある集落が津波で流されてたことでしょう。
私に言えることは、ただただ生きていて、本当に良かった。誰が何かを決めれたのではなく、生きているのは運が良かっただけなのかもしれません。
長くなってしまいましたが、当日のあの日をすこし振り返ってみました。
毎日毎日が慌しく進み、しかし、復興への道は遅々として進まない今日です。
パソコンも手に入り、ネットにつなぐことができてしばらくなりますが、
どうにも日記の更新ができませんでした。
何をどう書いていいか、考えてばかりで手が進まない。。。
あれからいろいろとありました・・・。
いろいろとありすぎて、どう整理したものか・・・。
そんな感じです。
3月11日、私は午前中の撮影の仕事を終えて、会社で翌日の準備をしてました。
地震が起きた時はデスクでパソコンに向かっていたのですが、大きな揺れでラックの荷物が崩れ落ち、机の上にあった道具も床に落ちたり、棚が倒れてきたり、
未だかつてない揺れに、ただただ身体を保っているので精一杯でした。
会社には、私のほかに妻と7ヶ月の長男と3人で居ました。
子供は妻が背負っていたので、怪我もなく無事でした。
この時点での地震の被害はおそらくそれほど大したものではなかったと思います。
いろいろと荷物は倒れたりしましたが、もっとも高価なカメラ機材などは無事だったので。
地震直後、すぐに停電となり、TVも見れないので、外の状況がわかりませんでした。
会社の外では、慌しく人々が行き交っており、車は渋滞していたのを覚えています。
とりあえず、外の車のエンジンをかけて、ラジオを入れました。
大きな地震のニュースが流れていましたが、この時点では津波の恐れはアナウンスしていたような気がしますが、会社は海岸から1km以上も離れているので、今まで津波の心配をしたことがありませんでしたので、
あまりラジオの内容も十分に注意していなかったような気がします。
とにかく、地震直後のニュースだったので、地震があったという内容だけで、それを聞いて自分は会社に戻り、地震の揺れで水槽から水があふれて大変な状態だったので、その片づけをしはじめました。
大きな水槽からこぼれた水の量はかなりの量で、片付けも大変でしたが、海水なのでそのままにはできないと思いましたし、
翌日には撮影の仕事があるので、機材を安全な場所に避難させようと、車中に積み込みました。
今思うと、このときにしっかりとラジオを聴いていれば、津波のことをもうちょっと注意し方かもしれません。
・・・、いや、今までに何度となく津波の注意報を聞いて、その都度たいしたことがなかったので、
津波に対する警戒心というか、警報の信用をなくしていたというか、きちんと受け止めることができなくなっていたのかもしれません。
その場で目に見えない津波の注意よりも、目前の散乱した部屋を見ている衝撃の方が大きく、ただただ早く片付けなければ・・・という気持ちになってました。
片づけをしながら、妻が長女のことが心配なので迎えに行くと言ってきました。
長女は地元の保育園で預かってもらっていました。
地震の影響は心配でしたが、外は渋滞で車で移動ではどれだけ時間がかかるかわからなかったのと、自分は会社の片付けもあり、離れるわけには行かないと思っていたので、
妻一人で移動させるのも危険と考え。
気持ちを切り替え、保育園の先生方を信じ、妻を説得し、もう少し待って、様子を見てから一緒に迎えに行こうということになりました。
保育園や学校なら、地震にも強く、きっと無事だと考えていたからです。
地震からどれだけ過ぎたころでしょう・・・。
30分?・・・、いや40分近く経ったように感じています。
その日はとても寒く、片づけをしながら、最初は窓を開けて車のラジオがいくらかでも聞こえるように・・・と思っていたのですが、
寒いのでドアを閉めてしまいました。当然ラジオも聞こえなくなったわけですが。
水槽の水をとりあえず一通り拭き終えたころ、停電で機械類も動かなくなった静けさに気づき、
ふと外をみると人がまったく居なくなっていました・・・。
その直後でした。
道路を水がサーッっと走っていきました。
音もなく、静かに、低く、速く水が流れていきます。
何が起きているのか、瞬時には理解できませんでした。
その水が流れてくる方向を窓ガラスから覗き込んだとき、すぐに理解できました。
水が流れてきた大道路を見てみると、2階建ての高さほどがある瓦礫が音もなく静かに移動していく瞬間を目のあたりにしたとき、
『津波だ!』と理解できました。
その大道路は海に向かって直線で、4車線の大きな通りだったので、いち早く波が流れ込んできたのでしょう。
しかし、瓦礫は多いものの、水の水位?は以外にも低く、まだ自分の会社の前には水が薄っすらとしか流れ込んできていませんでした。
その瞬間にその後の対応をどうすればいいのか、頭の中でいろいろなことを考えるのですが、やはり海岸から距離がある場所だということが頭から離れず、加えて、すでに水が流れ込んでいることからこれから外に出ることもできないので、
会社の中でまずは様子を見るしかないと考えました。
このときも、水位が上がったとしても、膝下ぐらいだろうという甘い考えが抜けませんでした。
ラジオか防災無線のようなものがあれば、おそらく、もっと早くに津波に襲われ、その事実がTVの中継のように早く伝わった可能性もありますが、
そのときには、外からの情報が一切なくなっていましたので、どれだけの津波なのか、どこで何が起きているのかもまったくわからないままでした。
道路に水が走って数秒、自分はこんなときに・・・と思われるかもしれないが、この現実を記録しなければ、と思い、手身近にあったホームビデオを手に、外の状況を撮影しようとしました。
水の流れは想像以上に速く、そして、初めは数センチの水位が、途中から加速度的に上昇していくのがわかりました。
その速さはなかなか言葉で言い表せないのですが、水位が10cm上がるごとに、部屋の明るさがどんどん暗くなっていくのを覚えています。
ガラス張りのドアに黒い海水がどんどん水位を上げて押し寄ってきました。
初めは、どの程度の水位がくるか見極めようなど考えて注意してドアを見ていたのですが、
10cm、20cm、30cm、40cm、、、、と勢いが止まりません、
30〜40cmぐらいになったときに、このままではドアのガラスが割れて一気に流れ込んでくると、感じたので、とにかく少しでも高いところに移動しなくては・・・と、妻と子供をテーブルのある部屋に移動させました。
一階建ての平屋の社屋なので、高いところに逃げる・・・ということができなかったんです。
唯一できたのは、テーブルの上に上がるぐらいで、嫁が子供を背負ったままテーブルの上に上がり、自分も乗ろうとした瞬間、後ろでバシャンという大きな音がなり振りかえると、まさに映画のように水が勢いよく流れ込み、床においてあったパソコンやテーブルも一瞬にして吹き飛ばされるようにして流されていく瞬間を見ました。
海水はあっという間に、本当にあっという間に部屋一面に流れ込み、テーブルの高さまで何のためらいもなく上がってきます。
テーブルの高さで収まるような津波でないことを考える間もなく、窓をに足をかけ、さらに高いところを逃げようと必死でした。
(窓があったから良かったものの、窓のない部屋に逃げていたら、そこで3人とも助からなかったでしょう。)
窓の外には、すでに車が流され、どんどん積み重なるように集まっていました。
平屋の一階建てなので、窓以上にもう登れるところなんてないんですが、窓をあけたちょっと外側に、隣との仕切りの網フェンスがあります。
そこに足をかけられそうだったので、2人でフェンスに足をかけ、その上に上りました。
足元では、津波の激しい流れが・・・。足を滑らせ、少しでも流されることになれば、きっと助からない・・・。それは簡単にわかりました。
水はどんどん水位をあげてきます。
2M近くフェンスを飲み込もうとしているので、さらに高いところに逃げなくてはならないのですが、
あとはもう屋根の上しかない状態で、そう簡単には上れそうにない高さなのですが、フェンスからは手の届く位置でした。
やや雪の降っている中、まず子供をおんぶ紐ごと屋根の上にあげて、今度は自分たちが上がらなくてはならないんですが、足をかける場所が難しく、フェンスを移動するなりして、壁にあるエアコンのホースとか、雨樋とか、とにかく必死の思いでよじ登りました。
屋根に上ることで、今まさに起きている現実を知らされたような気がしました。
街は水につかり、車は簡単に流されていき、警報のサイレンの音が鳴り響き、あちこちで悲鳴のような声が聞こえ、
海水が絶え間なく海から流れてきます。
何もできずただただ見ているだけでした。
近くの建物の屋根には、同じように逃げ延びた人たちが何人もいました。
遠くのほうでは、車の上に乗ってる人もいました。
津波が来てから、本当に一瞬の出来事だったように感じます。
あとから知ったニュース映像では、逃げる時間すらなかった場所もあるようなので、
その点、いくらかでも陸地の自分ところは、津波が勢いを弱め、ゆっくりと押し寄せてきたので、
逃げることができたのかもしれません。
屋根の上に逃げ延びて、変わり果てた景色にどうすることもできないでいたのですが、
雪が降ってきて、子供をどうにかして守らなくてはないけないと思ったんですが、
屋根の上では何もないので、どうすることもできません。
幸い、子供は防寒になるようなコートを一枚羽織っていたので、直接雪に濡れることはありませんでしたが、
自分は片付けの途中だったため、ワイシャツ一枚で、寒さで震えが止まらなかったです。
何時間でしょうか、屋根の上で様子を伺っていたのですが、水が引く気配もなく、今度は徐々に日が暮れていきます。
水深はドリンク会社のトラックが丸々浸かるぐらいなので、2m近くでしょうか。
この状態では、仮に移動できたとしても、ずぶ濡れになるし、子供まで濡れてしまいます。
水の流れは弱くなっていましたが、それでもゆっくりと流れがありましたし、さらなる津波で流されないとも限りません。
それに、逃げる先もどこまでが安全なのかがわからない以上、うかつに動くことも危険だと思い、
救助が来るのを待つことにしました。
どんどん日が落ちて、やがて暗くなってきます。
屋根の上ではただそこにいるだけでも風と雪で体力を消耗していきます。
近くには2階建て・3階建のアパートがあるんですが、渡れるような距離でもなく、人影も見えなかったので、助けは見込めないと思い、隣の空き倉庫の方へと移動しました。
屋根伝いに移動したのですが、普段はとても飛び乗れるような距離ではないのですが、津波で車がながされ
、ちょうど運よく足場のようになっていたところがあったので、何時崩れ落ちるかわからない状態でしたが、
その上を移動し、隣の倉庫に移動できました。
こんな状況ではありましたが、中に入るためにはガラスを割らなくてはならず、かなり迷いましたが、流れてきた木材でガラスを割り、中に入ることができました。
外の寒さからか逃れられる・・・と期待して中に逃げ込んだんですが、空き倉庫となっていたそこは、本当に何もない部屋で、
コンクリートの床に、消火器が2本転がっているだけでした。
せめて、壁紙でもあれば、はがしていくらかでも寒さをしのげるのに、と思いました。
しかし、雪や風からは逃れられたので、その点は助かりました。
電話は一切つながらない状態でした。
規制?なんでしょうか、この大災害時に、本当に必要な連絡さえもできないような電話って、
いったい誰のための規制なのか?
幸いメールはかろうじて送受信できるようだったので、すぐに両親にメールをしました。
両親は仙台にお見舞いに出かけており、津波を逃れました。
車も無事だったようなので、保育園に置いてきた長女の救出をお願いしました。
この津波です。
何が起こっているか、まったく想像できません。
ただただ、保育園の先生に頼るかありませんでした。
災害時の対応は、一般人よりもちゃんと訓練しているはず、だから大丈夫・・・・そう願うほかありませんでした。
やがて周りは真っ暗となりました。
電気のない、車もない、明かりという明りの全くない世界。
時々ヘリが何度か行き来してました。
ケータイ電話や懐中電灯を持っている人は、ヘリが通ると必死に「ここにいる」というメッセージを送るのですが、ヘリはとどまることなく通り過ぎてしまいます。
遠くの方で、空が赤く染まっていました。
火災、であることはわかりましたが、後日知ったのはそれが小学校が燃えているということでした。
その夜は、雲一つない晴天で、それがより厳しい寒さを感じさせました。
寒くて寒くて震えが止まらず、立ちっぱなしで疲れていても、座ればコンクリートの床がどんどん体温を奪っていきます。
一番心配だった、7か月の子供がそれまで6時間ごとにお腹をすかせてミルクを飲んでいたのに、
10時間が過ぎても泣かずに我慢してたことです。
私はワイシャツ一枚だったので、子供を背負っていると、背中がとても暖かったのですが、それでは子供の体温を奪ってしまうと思い、スーツを着ていた妻になるべく背負っていてもらいました。
しかし、長時間立ちっぱなしはかなりつらいですし、座れば子供は泣いてしまうので、一晩、交代交代で子供をあやしながら、水が引くのを、、、
助けが来るのを、、、
朝が来るのを、必死に祈りながら、ただただ待つしかありませんでした。
ケータイの電波は、津波の後、6時間ほどは使えましたが、その後は全くつながりませんでした。
アンテナのバッテリーがなくなったんでしょう。
深夜、もはや明かりはケータイのみなので、それも貴重な電気となることもわかっていましたが、
ワンセグでその状況を知ろうとTVを付けました。
ニュースでは繰り返し、津波の映像ばかりで、それも空港や大きな町の映像ばかり。
当然、自分たちが知りたい情報などそこにはありません。
月の光で、その光景はうっすらと見えます。
水位はほんの少しずつ、1時間数pという感じで引いていくのがわかりました。
これなら、夜遅くには歩けるぐらいに引くんじゃないか、、、という期待を持って、寒さに耐えていましたが、
夜の11時ぐらいだったでしょうか、再び水の音が激しくなったので、何が起きたのかと思い外を見ると、
さっきまでやっと40〜50cm引いた来たと思った水位が再び元の最高位まで戻っていました。
第2波、第3波の津波が来たんでしょうね。
この時点で、水が引いてからの脱出はあきらめました・・・。
深夜、最も寒さの厳しい時間、体はガクガクと震え、鼻水は止まらず、きっとひどい顔をしてたでしょうね
。
建物の中・・・といっても、気温は外と変わらず、救助が来るのでは?と外も見ていないと不安なので、窓をあけていたので、そよ風程度の風が入ってきても、とても寒かったです。
ブクブクと、どこで音が出ているのか、倉庫の中で聞こえるのは、一回から聞こえてくる空気の音と、外は鳴りっぱなしのサイレンの音。
余震が来るたびに、これ以上逃げ場のはわかっているんですが、どう逃げるべきかを考えていました。
夜、それまで「助けて」と叫んでいた女性の声がついに聞こえなくなりました。
おそらく、建物ではなく車か何かの上で待っていたのでしょう。
この寒さのなか、濡れた状態で外にいたのでは、とても耐えられるものではありません。
暗闇の中、もう言葉にならない声で、必死に助けを呼び続け、徐々に声が小さく消えていくあの声を自分は一生忘れることはできないでしょう。
一分、一秒が、あまりにも長く感じる時間でした。
夜に何度か子供が泣き出しましたが、今の自分たちにはミルクも水さえもあげられず、おしめも替えてやることができないまま朝を迎えようとしていました。
水位は徐々に低くなっているのですが、それもいつまた津波で水位が上がるかわからない状態で、
ようやって逃げ出すか、悩みました。
朝になって、日が出てくると、太陽にあたっている部分が暖かさを感じ、太陽の偉大さを改めて実感しました。
外を見ていると、徐々にですが、人が海岸側から歩いてきているようでした。
しかし、まだまだ水位は高く、胸まで浸かっているを見て、自分たちはまだ動けない…、そう思い、
もう少し引くまで様子を見ました。
必ずしも、その人たちが行く先が安全とは限らないので。
自分一人なら、濡れてもなんとか生き延びれる、しかし、子供はそうはいかない。
確実に助けなくちゃいけない・・・。
しかし、時間は朝8時を回り、子供も最後にミルクを飲んでから、20時間近く経とうとしてました。
明るくなったこともあり、そろそろ限界だと感じたので、意を決して外に出ることにしました。
水位は、自分の腰ほどまでありましたが、子供を自分が背負い、足元が全く見えない中、ほかの人たちが歩いた場所を見て、安全な場所を通り、水の上がらなかった場所を目指して歩き続けました。
妻には、子供に着せていた防寒着を首に巻かせ、自分たちが濡れても、子供の服と防寒着だけは濡らさないようにと注意しました。
津波は、少し高台となった国道の道路を挟んで、まさに天と地獄のような違いで、その先は何事もなかったかのように、いつもの街並みがありました。
ずぶ濡れになった自分たちを救援に来ていた人たちの焚火にあたり、すこし服を乾かした後、
この地域の避難場所となっている学校を目指しました。
まずは、子供の見るだけでもわけてもらえないか。。。そう思っての移動でした。
学校はすでに飽和状態で、たくさんの人でいっぱいでした。
指揮系統が全く機能していないので、どこに何があるのかが全く分からないままで、
幸いにも知り合いの家族と合流することができたので、案内してもらい、座ることができました。
次にミルクですが、まだ救援物資も届くはずがなく、ないもないような中、救護班の方のおかげで、
乳児用ではありませんが、医療用の流動食をいただき、飲ませることができました。
避難所まで逃げることができたので、ようやく少しは気が緩んできたのか、教室で横になっているところに、
両親が探しに来てくれました。
そう、心配だった長女を無事に探し出して、一家全員無事で再会することができたのです。
地震当時仙台にいた両親は、すぐに石巻に向かったのですが、普通なら1時間で来れるところを6時間以上かかって帰ってきたようです。
そして、会社の近くまで来たそうですが、とても近づける状況でなかったので、そのまま長女の保育園に向かったそうなのですが、堤防が決壊したという事態で通行規制がかけられ、迎えに行くことができず、
その晩は高台に避難して明るくなるのを待ったそうです。
そして、再び長女のある保育園に向かい、車で入れないということで、歩いて迎えに行ってくれました。
長女のいた保育園から数キロ先では北上側の土手が決壊し、土手沿いにあった集落が土手ごとごっそりなくなっていました・・・。
こんな言い方をしたらいけないのかもしれませんが、もし、その堤防が決壊しなければ、間違いなく保育園のある集落が津波で流されてたことでしょう。
私に言えることは、ただただ生きていて、本当に良かった。誰が何かを決めれたのではなく、生きているのは運が良かっただけなのかもしれません。
長くなってしまいましたが、当日のあの日をすこし振り返ってみました。